〈一席を組む〉その2 バウムクーヘンと自由な連想

信楽の陶芸家、谷穹のバウム蓋置。

 

バウムクーヘンの、蓋置。
まず、かわいいな、と思う。 けれどもすぐさま「どんな趣向で使える?」と自問する。

バウムクーヘン。
素直に、食欲の秋、とか。

いや、年輪だ。

つまり幾重にも重なる幸せ、長寿の願い、子孫繁栄の願いの象徴として。

-

ドイツ発祥のお菓子だから、ドイツにちなんだ趣向にも使えるかもしれない。

日本で最初にバウムクーヘンがもたらされたのは現在も続く菓子屋「ユーハイム」によってである。ユーハイムを贔屓にしていたの客の中には谷崎潤一郎などがいたという。


ちなみに、ユーハイムの歴史は調べると面白く、という言い方が適当でないとすれば、考えさせられるものであった。

後にユーハイムを創業するカール・ユーハイムは、もともとドイツ本国で菓子職人をしていたが、自分の力で事業を立ち上げようと、当時ドイツの租借地であった青島(チンタオ)に行き、1909年、喫茶店「ユーハイム」をオープンさせる。

第一次大戦がおこり、日本はチンタオを陥落。そしてユーハイムも日本の捕虜となり、日本に連れて行かれた。最初は大阪の収容所にいたが、インフルエンザの予防接種のため、広島の検疫所に移送される。そのときに、広島県が検疫所の捕虜が作った作品の展示即売会を開催することになり、ユーハイムはバウムクーヘンなどの菓子を作ることになった。その会場となったのが広島の物産陳列館、のちの原爆ドームであった。

バウムクーヘンの好評や、日本での捕虜生活が意外と快適だったようで、ユーハイムはチンタオに残した妻子を呼び、終戦後も日本で暮らすことを決意する。

日本でははじめ、明治屋の社長が開いた喫茶店で製菓部主任を経て横浜で開業し、店は繁盛したが、関東大震災により店は焼失。全財産を失う。

伝手をたより、神戸に一家ともども疎開したユーハイムは、救済基金を元手に三宮に喫茶店「JUCHHEIM'S」を開店。大いに流行る。

しかし第二次大戦の空襲などで被害を受け、ユーハイムも病気になり、ポツダム宣言の前日に亡くなった。

戦後、GHQによりユーハイムの家族はドイツに強制送還される。だがここで、ユーハイムの従業員だった日本人たちが、ユーハイムの復興を目指して会社を設立。のちにドイツからユーハイムの妻エリーゼが戻り、同社の社長となった。エリーゼは1971年に神戸市で息を引き取った。

日本とドイツ、二つの大戦と関東大震災。東京、横浜、神戸。20世紀の歴史の側面が、まさに年輪のように積み重なっているようである。

-

暖炉や炉の火で焼く焼き菓子、秋や冬のイメージ。

-

バウムクーヘンは、何層にも焼き重ねて作られる。反復。だが、その反復は機械的なようでいて、一回一回それぞれに差異がある。差異と反復。お茶の稽古や茶会そのものもまた、同じ事の繰り返しでありながら、一期一会の、その時だけしかないことの積み重ね。

-

木、森。

切り株。

山水画の山のひとつの木から切り出した切り株。

-

言葉遊びや連想によって、イメージを膨らませる。

蓋置は主役の道具ではないけれど、料理に欠かせない薬味のようなもの。真面目なのか、ふざけているのか、よく分からないような道具があると、席にコクと深みがでる。

Back to blog