九月の三品
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九月になったからといって、急に秋になるわけではない。
けれど朝晩に涼しさが増し、いつもの帰り道に虫の声が響き、すこしづつでも、日も短くなった。
そのようにしてだんだんと夏が遠ざかり、空気から湿り気が減っていく。
九月は、改札で夏と別れ、その足で秋に会いに行くまでの、電車を待つ、その束の間の時間である。
まだ思い出というには生々しく残る夏の記憶と、そろそろと近づいてくる過ごしやすい季節への期待が混ぜ合わさって、わたしのからだは、少しふわふわした、とりとめのない生き物のようになる。
少しだけ残業をした後に退社して、電車を待つホームで『きことわ』を読む。前に読んだときからしばらく間が空いたけれど、少し読み進めるうちに、物語の記憶がよみがえってくる。
ホームに立っている自分と、物語のなかに入り込んだ自分。小説を読むとき、わたしのあらゆる属性は剥ぎ取られ、何ものでもない自分へと還っていく。架空の人々と私の境がぼやけてにじみ、わたしの意識は「いまここ」から少し離れていく。
話のなかに、いくつかの食事の場面が出てくる。小説の中の人々は、ごくありきたりの料理でも、それが実においしそうで、羨ましいとおもう。それはきっと料理を説明する言葉というものがゆっくりなので、その分じっくりと時間をかけて、その時間を見ることができるからではないかと思う。
写真なら一枚で、一瞬で、伝わるものを、書かれた言葉は、何行もの文をたどって、プロセスや視点の移動をともにする。書くときにも、小説家は、ゆっくりと事物を観察しながら、あるいは思い出しながら、その描写を書いているのだろう。
そんなにゆっくりだから、あるいはそのように時間を贅沢に味わっているのだから、文章のなかの料理は、いつも特別な料理になっている、のではないか。
殺すなら、ちゃんと目をみて殺せーー。
食材を買うときも、料理をつくるときも、(片付けのときも、)きっと、目の前のことに、自分が今していることにちゃんと心を向けていたら、それが充実した時間になるんだろう。
あせったり、スマホでドラマの配信をチラ見しながらつくったり、そんなふうに、今の時間をぐちゃぐちゃに引っ掻き回してしまえば、〈今この時〉という時間は 猫がぼろぼろにしたワタのはみ出したぬいぐるみのように見る影もない無残な姿となり果てる。そんなぼろぼろで悲惨なおもちゃとともに暮らしたくはない。
わたしたちは、自分の時間を「殺し」ながら、日々を死に向かって歩いている。スーパーにあるものにしたって、わたしが直接に殺したとは言えないけど、その「もの」たちに最後の止めを加えるのは、決定的に不可逆な変化を加えるのは、自分なのだ。
豊かな時間とは、そのようにわたしの前に差し出されたものについて、しっかりとひとつひとつの目を見て、殺していくことなのだ。それが、贅沢な時間の味わい方なのだと思う。
疲れや、余裕のなさを言い訳にして、おざなりに、ちゃんと見もしないで、殺してはいけなかったのだ。
しかし、そんな物騒なたとえしか思いつかない自分に、自分で笑ってしまう。まあいいか。
最寄りの駅に着いたところで、本を閉じ、改札をくぐりながらスーパーで買って帰るつもりの食材をぼんやりとリストアップする。
涼しい風が吹いている。日も、ひしめく建物の隙間に落っこちて、人々の顔も影に隠れるように、街のなかに溶けている。
外に仕事に出ていると、自分の家で何かをしていられる時間は、少ない。わたしはわたしのなかに入ってきたものの名前を、憶えているだろうか。わたしのなかにいる間だけでも、その味をきちんと嚙み締められているだろうか。
わたしはいまの自分の家が気に入っているから、そこでの時間は、できるかぎり贅沢にしたいのだ。つまり、ひとつひとつをしっかりと見て、過ごしたいのだ。
暑さが緩まり、それに合わせて体も少し余裕を取り戻してくる。けれども仮借なく真上から降り注いだ灼熱のほてりは、どこかまだ全身に漂っていて、きっと少し静かにしていることを、体は望んでいる。

白磁なのだけれど、釉薬はうっすらと淡い水色で、それがぽってりと厚めにかかることで、ぼおっと光っている。光を、吸い込みすぎもせず、跳ね返しすぎもせず、揺蕩うように光をまとうこの皿は、ちょっとしたおかずを盛るのにもちょうど良い大きさとかたちで、普段からよく使っている。
美にも、いろいろな種類があって、これは激烈な、啓示のような美ではない。垂直に天から降り注ぐ光ではなく、ゆるやかな角度で、そっと食卓に差し込む、そういうたぐいの光を纏っている。
だから、普段から使っていても気疲れしない。
でもしっかりとした存在感と造形的な気品があって、シンプルな服装を上品に着こなす友人がそばにいるような、そんなちょっとした高揚感もある。
川端まさみさんがつくるうつわは、これ以外にもお気に入りが結構あって、気構えなくていい気楽さと品の良さが両方あるから、ついつい手をのばしてしまう、わたしのうちで一軍の食器になっている。
やわらかな線に包まれた食器は、目からも疲れを癒してくれるようで、季節の変わり目にはことさら好ましかったりする。
すこし歪な線があったり、揺らいでいたり。そうした抜け感も、今の感覚によく適う気がして、好ましく思える。

焼き締めのシンプルさも好ましい。 殊に、滑らかな肌を持ち、薄作りのこの鉢は、サラダ(ビーツなどの鮮やかな色も似合いそうだ)、くだもの、小鉢一品の皿としてもよい。
薄手だが、堅く焼きしまっているので、日常での取り扱いも神経質にならなくていい。
この浅鉢は、少し洒落っ気があって、星を掲げた店でも出てきそうな雰囲気がある。長時間の窯焚きによる土の複雑な表情とあたたかみ、益子の土で無釉焼き締めで作られているというエキゾチックさ(益子なのに焼き締めというひねり、そして1週間近くにおよぶ超長時間の窯焚き、それによって生まれる作品は南蛮という名称を基本とするのだが、その通り、それは「どこか遠くの場所」から来たような、気分がある)。
鹿丸さんのうつわは、その制作過程としては益子で益子の土をつくって作陶しているので、きわめて土着的であるのに、作品としては無国籍的で、都市的な気配を湛えている。
その「匿名性」は、何ものにも寄りかからず自立しているものだから、わたしとの間に適度な距離感があり、そして空気をシャキッと整えてくれる良さがある。冷たい水で顔を洗うような、気分がすっきりとする気持ちよさを持っている。

すこし心身を緩めたいときには、お酒を飲むのもいい。少し涼しくなってきた今時分には、コメの旨味を感じる純米酒なんかも沁みるだろう。一人で呑むときは、やはり片口は気軽に使えて、うれしい。
この手刳の片口は、その名の通り、木のかたまりから鑿などをつかってくり抜いて形作るものだ。荒々しさを感じる技法だけれども、この片口には、優美さとわたしなんかは熱帯魚を連想するようなかわいらしさがある。
面取りのシャープさと鑿跡の美しさ。そして軽さ。漆は意外と丈夫で、使っていくうちによい雰囲気になっていくし、傷ついても塗りなおしなど補修してもらえるから、なるべく普段から何かと理由をつけて使うようにしている。
漆は適度な湿気があったほうがよいから、つかって洗ってを普段からしているほうが長持ちするのだ。
お酒、毎晩飲んでるな、と思うときも、いやいや、これはうつわのためになることなのだから良いことだ、と私の心に言い訳する余地をくれるのだから、こんな素敵なものをしまっておく理由がない。
片口は別に酒に限らず、料理のソースなどをかけるのにもいいし、湯冷ましとしても使えるので、わたしはお気に入りの片口を2,3もっていて、たまに友人が来て、飲んだりするときにも、話の話題を提供してくれたりして(作家さんのこと以外にも、産地だったり、かたちだったり、漆だったら縄文からあるよね、とか、そんなことから思わぬほうに転がっていくこともあったり)、今日はどれを使おうか、と考える楽しみもある。
よく「見ること」ができた日は、うれしく、生きた心地がする。それができることが贅沢な時間であり、よきうつわは、それを手助けしてくれるものだ。
疲れが、ゆっくりとほどけていく。
もう少しで読み終わる小説と、読まれることを待っている物語と、行きたい場所と、生活のそばにあってほしいと思えるうつわと、友人との約束と、新しい服とーー。
寝る前に窓を開け、空気を入れる。
夜の風には、少しせつないような、乾いた涼しさがあった。
窓の外は暗くてよく見えないが、一年ぶりの季節は、たしかに近づいているようだった。