#1 焼き物と書
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作家・梶原靖元。
梶原さんは、ひとつのスタイルに固執せず、端正なものから稚気あふれるものまで、興味や直感のもとに次々と作るものを変えていく。その無碍の変転は、周りの人々を驚かせている。
それは傍から見れば、無軌道でランダムな運動のようにもみえるが、土台となっているのは、やはり唐津だ。唐津といっても、単に古唐津の写しというような、過去に比重を置いた姿勢とは違っていて、歴史を紐解きながら、有り得たかも知れない別の唐津についての思考を巡らせている、ようにみえる。
すなわち、梶原さんのライフワークは、古唐津を超える新たな唐津のやきものを生み出すことにあるとみえるのだ。高麗・李朝や青白磁と唐津との関係、有田と唐津との関係など、陶芸史において、そうはならなかった「もう一つの歴史」を、有り得たかもしれない文化の交流や衝突を思い描きながら、自身の作品を深めているように思えるのだ。
だが、1つの疑問が湧き上がる。そもそもいったい梶原さんは、どのような美意識をもって作陶しているのか—。
一見正反対のようなスタイルの作品にも共通している梶原靖元の、魂の部分。陶芸において、ぼんやりと見えていた梶原さんの根にあるもの。
それが、書という別の角度からも見えるようになったことで、いよいよはっきりしてきたように思う。
やきもの、書、そして詩。それらを貫く梶原靖元の作品から感じる、この〈何か〉は何なのか。
淡く清冽に光る、梶原靖元の実存の柱。
やきものと書を両方知ることで、それがだんだん見えてくる。
でも、あせってはいけない。化石を壊さないように、ゆっくりと周りを刷毛で払いながら、あらわにしてみよう。
書を見て、もう一度やきものを見る。
やきものを見て、再び書を見る。
この連載では、その往復を繰り返しながら、まだ一部しか露出していない梶原靖元という作家の「根」を、少しずつ辿ってみたい。
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初回から結論のようなことをいえば、梶原さんの画号が「薪水」であることは、大きなヒントになる。
薪と、水。
薪は火となり、水とともに人の暮らしを支える。
火と水は自然そのものでありながら、人の暮らしへと引き寄せられ、文化を成り立たせる根源的な要素でもある。
「薪水」。
この二文字には、これから梶原靖元という作家を辿っていくうえで、何度か立ち戻ることになるだろう。
ひとまず今は、この名を覚えておくだけで十分だ。
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やきものは、深いところから来ている。
何万年、何百万年という長い時間、大地の働きによって生まれた土や石を、人が掘り出し、砕き、練り、かたちを与える。それを、火の力によって決定的に変成させる。やきものとは、地球の長い時間を、火によって別の存在へと生まれ変わらせる技術である。
火は文化の根源であり、やきものは、自然を飼いならす文化として、きわめてダイナミックで祝祭的な技芸でもある。
しかし、文化であり技術であるといっても、すべてを人間が支配し、コント—ロルできるわけではない。陶芸という仕事の決定的な部分は、火という「他力」に委ねられているのだ。
もちろん、その火をどのように扱うかにも技術と経験がある。それでも、完全には計算し尽くすことのできない、不確実な自然の作用が残る。
とりわけ穴窯という、相対的に、制御できない領域が大きい環境では、その性質が強く現れる。
自らの計らいを超えたものを受け入れること。自然を文化に服従させるのではなく、人の力を超えた偶然性を認め、それとともに仕事をすること。
だからその作品は、梶原靖元という作家の個性だけによって成立しているのでも、自然の偶然だけによって成立しているのでもなく、その中間的な領域において成立するものだ。
そして、陶芸というものは、根本的には美でありつつ、道具として、人の暮らしを支えるためでもある。

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では、書とはいったい何なのだろう。
なぜ私は、梶原さんの書を見たとき、やきものよりもずっと近いところに「その人」が現れているように感じたのだろうか。
(続く。次回は、#2「書について」。)