10月の三品
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「座辺に転がす。」
いかにも数寄者的、文人墨客的な味わいのある言葉である。
気の利いたものを、身近に置いておき、眺めたり、撫でたりして(撫でる、というのは焼き物好きの特権でもあるだろうか)、楽しむもの。
実用に使えるものを、棚などに仕舞わず、そこらに出しっぱなしにしておいて、いつでもひょいと使うこと。
いつでも側に置いておきたい、お気に入りのもの。
「座辺に転がしたい」ものを持っているか、否か。それはモノとともに暮らしていくことにおいて、ひとつのメルクマールともいえる。
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ものは喋らない。動かない。腐らない。
自然界でいえば、石ころのようなもの、つまり無機物で、人間からは遠い存在だ。
しかし、お気に入りの無機物が、そばにあることは、生活の慰めともなる。人間との成り立ちの遠さが、逆に人の心を慰撫するのかもしれない。
単に美しいものを飾れば良いということではない。
何故か分からないが、心惹かれる。
自分と心が通い合う(ものには心がないので、この言い回しは変だが、しかしものを大事にしていると、ものが心を開いてくれている、そんなふうに感じる時がある)。
いつみても、ああ、いいなあ、と思う。
それは、自分にとってだけ分かればいいものだ。
世間の評価とは無関係に、自分こそが、このモノの本当の価値を分かっている。
もし、そのようなものと出会えたら、それはとても幸運で、楽しいことだろう。
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飾るオブジェでも、文房具でも、湯呑みでも、琴線に触れたものを、集めていくと、自分の心のかたちが、分かってくることがある。
なぜ自分は同じようなものばかり集めてしまうのか(というか、気づいたら似たような雰囲気を持つものばかり集まっていた)。
かたちなのか、色彩なのか、素材なのか、作った作家なのか。
自分でものを選んでいるつもりでも、集まったものを眺めていると、逆にこちらが見られているような気がする。
集めるということは、ものを通して、自分でも知らなかった自分の輪郭を確かめていくことなのかもしれない。
そのようにして自分を知ることで、自分の選択の軸が見えてくる。
何を買うかだけではなく、何を見るか、誰と付き合うか、どういう場所を心地よいと思うか、どういう仕事をしたいか。そういうさまざまな選択の底には、意外と、同じ感覚が流れている。
本でも、服でも、音楽でも、自分の好きを集めたものは、鏡よりも豊かに自分を映し出すもので、自分が、なにを大切にしているのかを知ることができる。
ものから、そのようにして、自分について教えられることもあるのだ。
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棚の上にちょこんと鎮座する陶製の厨子。厨子そのものいうよりは、厨子らしきもの、というべきか。
扉はなく、細身で、iphoneよりも低い高さだから、厨子として中に何かを入れる、というのも出来なくはないが、まあこれは単にそのまま飾るものなのだろう。
板状のたたらを貼り合わせてつくった幾何学的な造形だが、線が少しよろけているので、堅苦しくない。
むしろ路傍にある忘れられた厨子という感じが出ていて、良い具合である。
赤みがかった茶色の土の焼き締めで、芯の強さがそこはかとなく感じられるのは、明賀さんの作品だからだろうか。
手に持ってみると程よく重厚感のある重さを感じる。ざらつきのある肌を撫でていると、この無愛想なオブジェになんとなく情が湧いてくる。オブジェのような焼きものであっても、触覚から得られる情報というのは確かにあって、この厨子も例外ではない。
厨子の屋根は手前に向かって傾斜のついたシンプルな真四角の板であるが、これが厨子を厨子たらしめているのであって、つまり、この屋根(ひさし)によってもたらされる厨子内部の影が、厨子を深いものにしている。
無造作に置かれていても、大事に置かれていても、厨子というにはあまりにシンプルな姿が、逆に生活の空間に深みを与えてくれる。そして、社会とは違う時間の流れを感じさせてくれるこの存在によって、ひとつのゆとりが、部屋の中に生じているのだ。
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湯呑みはいくつかを持っているが、使い分けているというものでもなく、その時のお気に入りについつい手が伸びる。
つねに目につくところに置かれていることの多いものだから、お気に入りがあると、生活の景色がなんとなく楽しいものになってくる。
萩の吉野桃李によるこの湯呑は、大道土単味のもので、土の味わいがなんともいい。大道土のポテンシャルをみる思いがする。(この土は単味だと轆轤が難しいらしく、多くの作家は単味で作品をつくることはない。)
小さな湯呑ひとつでも、それが置かれた場所の雰囲気を変える。それは亭主の分身、似姿でもあり、美的な志向(嗜好)を反映する。お気に入りの湯呑は、自分で使う以外にも、客に供することで、亭主は無言のうちに自分自身を差し出すことができるのだ。
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書も、また生活の楽しみである。
近年書を独学で始めた。自分の字は好きではなく、好きになりたいと思いつつ、良いと思う字を手本に、練習している。
書を書くのは、心落ちつくものともいえるが、自分の下手な字に、上手く書けないことに、気持ちが逆立つこともしばしばである。
なるべく机を綺麗に片付けて、紙と墨と筆を用意する。
普段の練習では墨汁を使うので、水滴は「本番」の時に使うのだが、使わずとも机に置いてある。
宝珠のような形の、いかにも李朝といった楚々とした清潔な白磁の水滴。清浄無垢な姿にも、どこか伊藤明美さんの作品らしい人懐っこさがある。
これがあると、文房を通じて大きな歴史の中に連なっている感覚を覚える。
誰に見せるでもない普段の練習の書だが、実はその営みは、何千年と続く人々の文化の蓄積の上にあり、今現在書を練習をする僕は、書聖王羲之をはじめ、橘逸勢や、虞世南や、良寛などと、かすかにではあるが、つながっている。
文房具がそれを可視化する。美しく愛らしい水滴は字を上手にはしないが、自分の意識が、過去の書聖たちとつながるためのマジックアイテムだったりする。村上春樹の小説のように、石のような無機物は、時に「ゲート」となり、こことどこかを、つなげる力を持っている。
それは湯呑でも厨子でも同じかもしれない。
ものを座辺に転がすというのは、「いま・この場所」と、「過去・どこか」をつなぐゲートを、身近につくることなのだ。
伝統のうえに立ち、現代で格闘する作家は、それを知っている。伝統をふまえて現代につくる作品は、過去の焼き直しではなく、過去との対話であり、過去へのゲートだ。
それは、時間と場所を超えた豊かな会話を可能にする装置だとも言える。
そして誰かが言っていたように、豊かな未来をつくるのは、過去との豊かな対話から始まるのだ。
今月の三品
明賀亘史 厨子
吉野桃李 大道湯呑
伊藤明美 白磁水滴