〈野衣〉という屋号で染織家として活動されている永井泉さん。離岸で来年初春に展示会を行います。
永井さんは「和綿」を栽培し、それを手紡ぎ・手織りで反物にしています。
この稀有な手仕事、そして反物の美しさの一端を知っていただけたら幸いです。
(インタビュー・動画編もありますので、併せてお読みください。)
モノは語る
先日、染織家の永井泉さんに制作していただいた着尺(着物1着分の反物)が届きました。
来年3月の離岸での展示に先立ち、僕も永井さんの反物で長着を誂えてもらうつもりなのです。
控えめにいって、すごく美しいです。
素材は和綿。
糸は手紡ぎ。(価格と着物の重量のバランスを考慮し、緯糸は紡績糸。)
そして手織り。
反物自体を見飽きることがなくて、ずっと見ていられます。鑑賞(拝見)の対象となる茶道具と同じように、反物自体に優れた作品としての強度と深さがあります。
そして何より、永井さんの反物は、そこに含まれる「物語」が豊穣なのです。それはどういうことか。
永井さんの反物は、その素性がそれはもう、はっきりしています。なにせ永井さんは原料となる綿花から育てていますから。原料の生産者=反物の制作者ということで、はっきりと顔が見えているのです。
トレーサビリティという観点からいえばこれ以上ないほどトレーサブルです。モノとの親密さは工芸作品における愉しみ、喜び、醍醐味ですから、どのような原料で、どのような工程でつくられているかを語れる作品は「強い」です。
わたしたちは永井さんの反物(着物)を媒介にして、作家の身体性を受けとり、さらにその向こうの素材、つまり大地へと繋がっていく。
そして栽培から反物の完成に至るまで、すべての工程を手作業で行っていること。
(綿打ちなどは将来的に外注できれば、、ともおっしゃっていましたが、)綿繰り、綿打ち、糸紡ぎ、染織、機織り。すべて永井さんが、機械を使わずに、手仕事で行います。
手仕事ならではのリズム、うねり、ゆらぎ。深みのある美しさ。反物に含まれるこれらの「時間」。
農産物であり、工芸品であり、用の美でもあるという、幾重にも重ねられた文脈が反物に織り込まれていて、反物自体が複雑な織物のような(!)物語を語っています。
わたしたちはつまり、永井さんの反物から、たくさんの言葉を紡ぐことができるのです。
このような「豊穣なるもの」を着ることができるうれしさ、
誰かに喋りたくなって、共有したくなるうれしさ、
出自がはっきりしているうれしさ、
大地とつながっている感覚を実感できるうれしさ。
そんなようなたくさんのうれしさが詰まっているということ。それは洋服を含めた現代の衣類全体においても、とても稀なことです。
和綿を栽培し、ワタを収穫し、糸を手紡ぎし、織り機で着尺を織る永井泉さん
永井泉さんは和綿に魅せられ、和綿の栽培から反物の制作まで、一貫して一人でやるという、とてつもないことを染織家として行っています。
でも全然気負っている様子もなく、実に楽しそうに、柔らかな笑顔でしているものですから、その生き方自体にも新鮮な興味を覚えたのでした。
大地と直接に交わりながら、米を育て(驚くべきことに、永井さんは米を作る農家でもあるのです。永井さんの米は買うことができます。めちゃおいしい。)、野菜を育て(野菜は基本的には自家用ですが、少し分けていただいたことがある。これもめちゃおいしい。。)、作物として綿花を育てる。その綿花から反物を制作する。
「衣食同源」ともいうべきその暮らしぶり。そこには〈野衣〉という屋号に込められた思いが見え隠れします。
綿花の美しさ、永井さんの紡ぐ糸の美しさ、反物の美しさ。
その美しさを紐解くべく、〈野衣〉永井泉さんの反物の素材と工程について、少しご説明したいと思います。
そもそも和綿とは?
まずは素材となる和綿についてみていきましょう。
和綿とは、ワタのなかでアジア在来種のデシ綿とよばれるものうち、14,5世紀に日本に伝来した品種です。
(⇡和綿は下向きに弾ける。)
アジア綿はもともとインドが原産で、「亜熱帯性の日照と高温、成長期の大量の雨と収穫期の乾燥を必要とするため」(wikipediaより引用)、日本での栽培は難しく、収穫量も少なかったようです。16世紀、安土桃山時代にようやく普及しはじめ、江戸から明治時代が和綿栽培の全盛期でした。
和綿は、繊維が短く太く、機械紡績には適していません。そのため、和綿から糸を紡ぐ場合、手紡ぎになります。洋綿にくらべ、産業としては非効率であったことから衰退し、現在ではほとんど幻のごとき存在です。(統計上、日本の綿花の自給率は0%なので、和綿という物自体、ほとんどの人は見たことがないかもしれません。)
和綿のぽてんしゃる。と色気。
和綿は繊維が太く短いと記しましたが、裏をかえせば、それ故、弾力があり、ふわふわと気持ちがいいということ。さらに手紡ぎの糸となると、糸の中に空気を含んだような独特の肌触りのよさがあり、和綿の着物を羽織ると、ふわっと身を守られているような安心感というか、心の芯が温まるような優しさがあります。
あとはなんといっても、手紡ぎの糸の風合い。これは糸を紡ぐ職人の技術あってこそですが、本稿の主題である染織家・永井泉さんの糸はとても美しいです。糸だけで感じる野性味と細やかで丁寧な繊細さ。絶妙な痩肥のリズムからなる手紡ぎゆえの立体感は、織物の醍醐味です。
絹とはまた違った光沢感も、和綿の美しさ。永井さんの和綿は伯州綿がもととなっていますが(永井さんは長野県で栽培しているので、自分の綿花を伯州綿とは呼ばないそうです)、その伯州綿を初めて見たとき、芯から光を放つような、にじみ出る光沢に衝撃を受けたそうです。
そして確かに、永井さんの和綿はすん、と心の底に響くような、しっとりとした光沢を持ち合わせています。
綿の着物というと安価なものというイメージがあるかと思いますが、和綿手紡ぎはまったく違います。シンプルだけど奥深い日本料理のように、じんわりと艶やかな光沢があり、色気があるのです。
一言でいうなら好きだから。
どの工程も気が抜けないという永井さん。それはそうですよね。
取材をするなかで印象的だったのはまず、原料としての綿に対する、永井さんの愛です。
僕が綿花の写真を撮っていると、覗き込んできて「かわいい〜!、美しい!はあ~」みたいな感じで、綿花にメロメロでした。(普段見慣れていると思うのですが、笑)
(⇡原料となる和綿。このあと、タネを取り、ほぐすことによって一層光沢が出てくる。)
たしかに永井さんが育てている綿花は絹のような光沢がある品種で美しい。永井さんはそれを単なる原料として見ているのではなく、育てる過程を楽しみ、(誤解を恐れずにいえば)自分が育てた子供のように、慈しみの目で見ていました。
栽培の難しい土地であれば、その喜びもひとしおなのだと思います。
永井さんに、どうしてそこまでするのか?と聞きました。和綿はまとまった量の購入がそう簡単ではない、ということはあるのでしょうが、それにしても、和綿の栽培から反物の制作工程を始めるなんて、並大抵のことでは出来ないでしょう。
答えはシンプルで、「一言でいうなら好きだから。」
シンプルですが、とてもずっしりと響く言葉。
永井さんはこれまで制作した反物の、ほんの小さな端切れもとってあります。あの膨大な制作をみればそれも当然、と頷けることで、どんな小さな切れ端も捨てるなんて、もったいなくて出来ません。
わたしたちが米の一粒も残さずに食べることを教えられるように、和綿もまたひとつのありがたき作物として、愛や敬意を持って接すべきものだと、心に刻みました。
(⇡一面の綿花畑)
長い時間が織り込まれていくこと。
こうして収穫された綿花は、種を除き、ほぐして(これらもすごく地道な時間のかかる作業です)、それから糸を紡いでいきます。
この糸紡ぎには特に作家の技量やセンスがでるように思います。言い換えれば、反物という作品の土台となる工程で、糸の良し悪しが作品の質に直結することは間違いありません。糸は織物の用途によって、最適となるように紡いでいきます。
経糸と緯糸を両方手紡ぎ糸にすると、一反分の糸を紡ぐだけで一ヶ月ほどかかるそうです。
右手で糸車を回し、左手で綿を適度に重ねながら、求める生地の質に合わせて微妙なテンションをかけながら、細く長い一本の糸にしていく。しゅるるる、しゅるるる、、。その繰り返しを1日中して、それが数週間。
そこにある静かな時間。
糸紡ぎだけでなく、着尺の制作に要する長い時間、向き合う膨大な時間は、たしかに作品の中に織り込まれている、と見えます。
作品の良し悪しは単純に制作時間に比例するものではありませんが、時間の堆積によって作品には何か魔法のような質感が、オーラが織り込まれていく。
すくなくとも出来上がった作品には、そう思うほどの深さがある。
(⇡糸が美しい。)
飲食衣服は大薬
染色は草木染め。近所で採取したり、他所から調達することもあるそうですが、何度も何度も染めの工程を繰り返していきます。染料もまた自然のものですし、触媒の具合でも変化してきます。
(⇡藍建ての様子。発酵させた藍の葉を水溶性の染料へと還元させる。藍染めには多くの工程、時間、職人の技術と勘が必要。)
この色の深さもまた、惚れ惚れするものです。
中国最古の歴史書である書経には、「草根木皮は小薬、鍼灸は中薬、飲食衣服は大薬」とあります。薬や鍼灸よりも、普段の生活のなかで何を食べ、何を纏うかに意識的になること。それが心身の健康にとって、もっとも大事だということです。
農作物を育て、綿花栽培から織りまで一貫した制作工程で反物をつくる永井さんの生き方は、まさに「大薬」そのものだと感嘆します。〈野衣〉という屋号には「衣食同源」の生活が反映されているのです。
わたしたちは〈野衣〉永井泉さんの反物で仕立てた着物を着ることで、現代において様々なストレスにさらされた心身を癒やすことができるのかもしれません。
(⇡染料の紫根。華岡青洲がつくった紫雲膏には紫根が用いられた。)
手織りの良さ
反物制作というと、やはり機織りのイメージが強いかと思います。けれどもここまでの説明で分かるかとおもいますが、機織りは反物制作全体からみると、ごく一部の工程です。
しかしこの最後の工程においてもやはり、人の手による手織りか、機械によるものかで、仕上がりの違いが大きく現れます。
ちなみに、商品としての反物には、製造工程についての記載に厳格な規則はなく、手織りでないものも、「手織り」というレッテルを貼ることができるようです。
各地の伝統工芸品の織物も、機械織りが認められていて、つまり機械織りでも「伝統」工芸品というお墨付きを得られるのです。むしろ機械で織っているところのほうが圧倒的に多いでしょう。
それは産業として存続していくために、仕方のない部分であります。手織りでは時間もかかりますし、そうなれば結果、価格が高くなる。買う人が少なくなれば、産業自体が消滅する。
ただし、わたしたち買手は、そのことを知った上で、自分にとってどちらが価値があるか、「大薬」としての着物とどのように付き合っていきたいか、選択することが大事です。
手織りの特徴として、手でシャトルを飛ばします。同じように一定のリズムで投げても、微妙なゆらぎが発生します。また織りすすめていくなかで、張力の調整が必要になり、そこで生地がわずかに波打つようになったりします。
音楽と一緒で、この微細なゆらぎこそが、人間にとっての心地よさを感じる原資です。揃っているけれども、完全に揃っていない。機械ではできないこの複雑なパターンを人間は無意識に感じ取って、そこに心地よさや豊かさを感じるのです。本当の手織りは、波のリズムや木漏れ日のような1/fゆらぎに近づいていくのでしょう。
(⇡手織りによって、生地に深みのある表情が生まれる)
手織りかどうかは、反物の耳をみると判別しやすいです。すぱっと一直線ではなく、わずかに波打っていたり、不揃いになります。
また、そもそもの話としては、繊細な手紡ぎの糸は、機械の高い張力には不向きです。
手紡ぎで、かつ手織りというのは、現在販売されている反物のなかでもごくごく一部の本当に希少なものなのです。
和綿(&手紡ぎ&手織り)というシン・スタンダード
希少な和棉という素材のポテンシャル。
手紡ぎの糸の美しさ。
自然の優しい染の色合い。
手織りによる深みのある風合い。
日本の歴史のなかで、綿の着物は庶民の日常着でした。
けれど21世紀における和棉、手紡ぎ、手織りという着物は、そうではありません。
歴史を継承しながらも、まったく新しい、古くて新しい美のかたちであります。
多くの物語や希少な価値を纏った、珠玉の工芸です。
それは大薬として身にまとう薬であり、大地の恵みであり、人の手による心地よいリズムの複合体であり、長い時間が織り込まれた豊潤な物語の泉であり、美の定義自体でもあります。
数は少なくとも、このような農家=職人=作家がいることは、同時代を生きるわたしたちにとって驚くべき僥倖だと思います。
和綿はもっと知られていいし、手紡ぎ手織りの反物も、もっと増えてほしい。
そのためには、われわれ消費者が真に価値あるものを選択することが必要です。
まずは展示会などで、本物の質感や美しさを、ぜひ自分の手で確かめてみてください。
きっと未知なる美しさを発見することになると思います。
触れたり、纏ったりすることで、さらに色々なことを感じ取れると思いますので、2026年3月、ぜひ離岸での、野衣・永井泉の展示会にお越しくださいませ。
和綿がこれからの世界で、「永遠のスタンダード」となりますように。
なんでもないこと、としての永井さん。(あとがきのようなもの)
文章で読むだでも大変そうな永井さんの反物制作。けれど永井さんはほんわか〜と、それをやっているように見えます。
しかし実は、永井さんの、その「なんでもなさ」こそが、美の核心なのかもしれません。
和綿の栽培にしたって、自分の思い通りになるわけでは無いでしょう。そこには人の力が及ばない領域があり、自然に任せるしか無い部分があります。思い通りに育たないこと、収量の不安定さ。収穫まで育てながら待つ時間。
自然を相手にするということは、(例外はあるにせよ)基本思い通りにならないことの連続だと思います。(子育ても似ているかもね。)。いつも自分のターンではない。ここまでやったら、あとは自分を手放し、自然に放り投げる。信じて待つ。そのアンコントローラブルな不安な状況に耐えること。このような「他力」のプロセスは、神頼みでもあり、つまりは自分を超えた力を持つものを信じることです。
そしてまたそれは、うまくういえないけれど、他者への信頼や、平和への訓練でもある気がしていて。
このようにして始まる反物づくりは、作ってやろうという作為がないことも無いでしょうが、それは希薄で、むしろ自然を別の形に翻訳するような、つまり作品の作者というよりは翻訳者のような気さえします。
自然が生み出すものを私たちに伝える優れた翻訳者。
それが、染織家・永井泉の本質であり、彼女が生み出す美の本質なのでは、と。
(テクネーとポイエーシスの話とかね。)
我執や邪心がなく、透明に、素直に、自然の声を伝えること。
その自然とは、外界の自然でもあるし、自分の内なる自然でもある。
2つは連続していて、我執や迷妄がなくなるほど、両者は見分け難くなっていくのかもしれません。
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